牽制〔シオン ムウ〕
「本日も、恙無く終えられました事。お疲れでございましょう」
己の奥の間へ戻ると耳に心地の良い声がゆるりと届いた。教皇シオンはこの弟子の声を何度聞いても毎日聞いても飽かぬもの、と思っている。
弟子の労わりに気配だけで返し、するりするり。朝とは逆の動線を行く。更衣の間ではしゃらりと装飾を外して法衣を肩から滑り落とす。それらを受け取る弟子はこなれたものだ。次々と受け取りそれぞれの仕舞い場所へ片付けていった。
「先日に里より届けられましたものを、お出しいたしましょう」
弟子の手が己の肩に掛けた一族の衣装は冬の物。何時の間にかここも衣替えを終えたらしい。幾重に重ねた布に厚くて軽い装束は重ねた織物の合間にあの地には稀少な鳥の羽根を抱かせた逸品。またこの様な、大変な時にこちらの事は良いのだからと呟くと、貴方様の他にこれを持てる者など、衣装箱の肥しにするにはまだまだ立派な物でございますよ、等と言っておられましたと心地の良い声が里の様子を面白そうに話すのだ。
「もういち家系が山より里へ戻りました」
「西に逃れた家は、最後の1人となっていたと」
いつもの様に長椅子に寄り寛ぐ私の前に肴を乗せた器を並べ終えそっと座る弟子はぽつりぽつりと話を続ける。昔の様に羊を追い始めました、果樹の群生は寄生の蔓を剥がし焼いて来春には元の姿に戻りましょう。見聞きしてきた交々を私に伝える弟子の髪をひと掬い。そう言えば、この前にこれの小僧がこの髪を。
「憎らしいもの」
私の突然の呟きに弟子は言葉を途絶えさせ首を傾げた。「いかがなさいました」と大きな瞳がこちらを見詰めている。掬い取った金の髪を更に引き寄せるとするり。姿勢を崩した弟子の肩が腕の中に入り込む。そのまま捕らえてしまおうか。
「あの小僧が、お前に乞うていた」
「この師は何を言っておられますのか…」
「お前が恋しいと」
「怪しげな事を。誰がその様な事をお耳に入れましたのか」
「私は己の目で見たものしか、聞いたものしかお前に言わぬよ」
では何を、どこで何を見たと言うのだろう、その様に疑われる事等何も。驚いて見開かれた大きな瞳がそう言っている。それは正しいのだろう。この弟子が何か不義を犯した訳ではない。ただこれに言い寄る者がいる。それだけの話なのだ。
「憎らしいものな」
小僧はあの時確かにこの私に立ち向かっていた。言葉にはせずとも「これはやらぬ」と言っていた。なんとも小賢しい。聖域、一族のそのどちらの立場でも、小僧等どうにでもする事など容易いが。
「…その様な事、言ってくださいますな」
あれもごく幼き時に一族を離されました者、ヤギの乳を私が手ずから飲ませました者を。何卒その様にお思いになられずと…。
この弟子がそう言うのだから、もう暫くは目を閉じていようか。
「…ならば、この師の心が凪ぐ様に」
「師よ…」
「お前しか、出来ぬ事ぞ」
この師の心を執り成してみよ、それが出来ればこの件は一度は水に流そうよ。そう囁かれればこの者に否や等言える筈も無い。するり。首に巻くストールを自らの指で落としたこの弟子の、朱に染まる肌に私は目を細めるのだ。