輪唱の双子
甦り、双子は離れ離れになっていた。
先に生まれた方は聖域に。後から生まれた方は女神について財団に。
「補佐殿」
「なんだね、我が弟よ」
小春日和と言うべきか。冬にしては暖かい昼下がりの聖域、教皇の間に隣接した執務室で日向ぼっこよろしく書類が2,3並んでいる机に頬杖をつく兄に弟があえて役職で声を掛けた。
神々の都合で死んだり生き返ったり、とは蟹座の言だが、俺は嬉しいのだと弟は思う。甦った兄は反逆者の汚名を濯ぎ、それどころか今では英雄とさえ呼ばれている。女神の父に愛でられた者と。弟として兄の名誉の回復を喜べることが何より女神の慈悲だと、何度御主アテナに忠誠を誓っても足りぬ。しかし…。
「…ああ…けだるいなあ」
これである。遂には頬杖さえ無くなり机に突っ伏してしまった。こういう時の兄には何を言っても効かない事をつい先日知ったのだった。少なくとも12宮の丘に住まう者達にとっては既に英雄などといった呼び名はどこか遠くへ行ってしまったに違いない。
聖域の長を除いて、この兄を一喝し尻を叩いて職務をさせることが出来るもう1人の年長者、双子座の上は今はここには居なかった。いや、居ないからこの、我が兄の気の抜け加減なのだろうか。提出の書類を兄の机に置いてそれでは、と立ち去ろうとした。
「リア」
「兄さん」
がば、と伏せていた顔を上げて弟を呼ぶ声に、アイオリアが振り向いた。
「久しぶりにどうだ?」
拳を構え、にやりと笑んで言う兄に弟は兄さん仕事は?と本当は言わねばならぬと一瞬思ったが、その考えはすぐにどこかへ放り出されたのだった。弟は嬉しくて、満面の笑みで頷いた。
*
小春日和の緩い空気は日本にも届いているようだった。
我等が御主パレスアテナにして今生はグラード財団の主でもある城戸沙織の住まう屋敷の広間には白いグランドピアノがあった。これは沙織が幼い頃に、祖父であり養い親でもある光政翁が沙織の誕生日に買い与えたものである。珍しい白は沙織のたっての希望であった。今では沙織がたまにほろほろと指を滑らす程度で、大抵は広間に権威を与える調度と化している。
「沙織さんが弾いてるのかな」
庭に面した広間の大きなガラス窓は今日の日差しに開け放たれていた。そこからゆるゆるとピアノの音が流れてくる。アンドロメダの少年が大きな瞳をそちらへ向けた。
「お嬢さんが本気で弾いているところは見たことがなかったが」
「ちょっと見てこようよ!」
にっこりと笑う義兄弟の笑みに負けて、龍座と白鳥座の少年も後に続く。ひよっこり庭から広間を覗くとピアノの前には沙織ではなくて、金髪の双子がいたのだった。
「サガとカノンだ」
双子座の兄弟が一緒にいるなど滅多に見ることは無い。サガは復活後は聖域で教皇補佐に、カノンは守護の要として女神に付き従っている。今日、サガがここにいるのは教皇から御主女神への使いを仰せ付かったからである。すげえなあ、という声に振り向くと天馬座の姿があった。
「星矢」
「当たり前なんだけど、マジで同じ顔」
「双子だからな」
「小宇宙の色もだぜ」
どうやって見分けるんだよと星矢と呼ばれた少年が心底感心した様に言った。さらりと跳ねる金の髪は雛の羽根。青い瞳に、今日は二人とも白いシャツに黒いスラックスの洋装で、何も同じ色の服を着なくてもいいじゃないかあれはワザとなんだぜと星矢は思う。兄の方はともかく、弟の方は皆が見分けに悩む様を楽しんでいるような気配もあった。
「…座っている方が弟で立っているのが兄」
白鳥座の少年がふと呟いて皆の視線を集める。
「どうして分かる?」
「前に我が師カミュに聞いた」
黄金の人たちはあの双子座をどうやって見分けているのか。すると師からはこう言われた。「目ではなかなか分からぬが、見ていれば自ずと分かってくる」と。譲るのが、兄。受けて笑うのが弟と。
そんな事を話している内に、ピアノの音は聞いたことのある有名な曲になっていた。まるで一方がもう一方を追いかけるように重なり流れる旋律。循環するコードは兄が片手で、次々と受け渡される旋律は弟の両手が受け持っているようだ。パッヘルベルだと瞬が言った。
2小節の音階は規則正しく循環された。その循環を決して倒れぬ幹として、芽吹く同度カノンの旋律がその弾き手の思うままに形崩され零れ落ちていく、その得がたい乱惰の魅惑。弟の手の奔放から奏でられる旋律を傍らで支える兄の、口元が綻ぶ様に笑む。言う事を聞かぬ弟の我侭に、その愛らしさにまるで仕様が無いとでも言うかの様に。それを見て弟も兄に笑いかけた。ほら、終演にはお前の元にもどるのではないか。楽しかろうが?
「…美しい曲ですね」
その声にすっかり観客になっていた青銅の4人が振り向くと、広間の扉から沙織が姿を現した。少女らしいふうわりとしたワンピースが可憐によく似合っている。今日もお嬢さんはご機嫌だと長い黒髪の少年は思う。最近気が付いたが、我等がお嬢さんはこの双子が揃っているところを見るのがどうやら好きなようだった。御主の姿に、ピアノに興じていた双子の兄弟は、すと臣下の礼をとる。その立ち振る舞いの完璧さに少年たちは舌を巻く。僕たちああいう風にしたことないよね。今更できねえよ。小声で呟きあっていた。
「貴方たちにされたらこちらが困ります」
しなくて良いですよ、と言われ一同胸を撫で下ろした。当代教皇がそれを見聞きしたら、もう一度空に投げ出されるかもしれない。
*
「…サガがピアノを?」
なんとなく教皇の間が数度、気温がさがった気がすると金の蠍が幼馴染の獅子を見る。あの小春日和から数日。我等が英雄の親友は未だ女神の元から戻っていなかった。
「うんそう。すげえな黄金ってなんでも出来るんだなあ」
恩師鷹座へ会いに聖域に来た天馬座の少年は、宿泊は獅子宮か白羊宮か人馬宮あたりにしていた。そろそろ少年の域を出ようとする弟子に、もうお師匠様ではなかろうと寝起きを共にする事を、師匠が止めた結果であった。この話をするとシベリア育ちの兄弟が嫌な顔をするので星矢はあまりしない事にしている。今日は人馬宮の予定である。親友が不在で手持ち無沙汰なアイオロスが星矢を誘ったのが経緯だった。
「サガとカノンって仲がいいんだね」
同行していた瞬が羨ましそうに呟いた。兄さん元気かな。潤む瞳が数回瞬きをして、そんな声が聞こえてきそうな様子であった。いいないいなと素直に言う。
「………。」
気に食わぬ。いや、サガが弟をとても大切に思っているのは13年の更に前から知っている。だから女神の聖域ご滞在の折は久しぶりに会う兄弟の邪魔をせぬ様に会いたい気持ちを抑えている。それはひとえにサガを大切に思う気持ち、サガの想いは我が事と思う故ではないか…。
解せぬ、と言った表情の英雄の背中に、ふと強大な波動が立った。教皇の間に伺候する黄金、射手座を筆頭に牡羊座獅子座蠍座、山羊座水瓶座は皆一様に其方に向き直り、背に纏う白い布捌きも華麗に、すと臣下の礼をとった。聖座の主、女神の代行者。当代教皇のお出ましである。鮮烈な小宇宙を惜しみなく放ち、青みを帯びた金の髪がゆらりと揺れる。皆がひれ伏すその風景を見て瞬が言う。僕たちああいう風にしたことないよね。今更できねえよ。教皇のいう所の小僧どもが小声で呟きあっていた。
「…今・更、もう良いわ」
されたら返ってこちらが驚くわい、と呟かれた。その教皇に畏れながら、とアイオロスが言上する。
「双児宮の主、双子座のサガはいつ帰還するのでしょう?」
「………。」
ちらり、自身の補佐に視線を流し、知らぬと一言。それに食い下がる人馬宮の主である。
「…執務が滞り、困ります」
「女神が手放さぬ」
「女神には、同じ身姿の弟が伺候しているではありませんか」
「揃ってこそ双子の醍醐味と、言っておられた」
さっぱり訳が分からぬという風情で教皇が言う。さらに食い下がる人馬宮の主であった。
「決済の書類もあるのです」
「貴公が奮闘せよ」
「出張手当も馬鹿になりますまい」
「…そんなもの知らぬ」
「兄は私に。弟は女神にと、女神の父の取り決めでございますれば」
「………。知らぬと、言っておる」
「しかもあれがピアノを弾けるなど。私は知りませなんだ」
「………………。私とて知らぬわ、阿呆が」
「我が師シオンよ」
そろそろ天秤座がつく頃でございます、ご用意を。師の機嫌を敏感に読み取りさらりと助け舟を出す弟子である。おお、そうであったと大袈裟に呟きその場を去ろうとする教皇を更に追う人馬宮の姿。
「…英雄かあ」
「…うむ」
「…いや、俺は嬉しい」
嬉しいぞ。アイオロスが居ることが俺は嬉しい。滅多に自身の心が目立つ事など口にせぬ無口な山羊座がふと呟いた。それを聞いて獅子座が笑んだ。
「いいなあ」
「…アンドロメダよ」
ここ数日、兄弟の仲を見せ付けられた気分の少年の目がそろそろ本格的に潤む。その頭をくしゃくしゃと蠍が撫でた。
双児宮の上の主が戻るのは更に数日の後である。